写真は「みずゑ」の1946年(昭和21年)9月号です。
「みずゑ」という雑誌ができた背景には、1900年ごろに日本で水彩画ブームがあったそうで、そのブームの中で水彩画家の大下藤次郎が水彩画普及のために、この雑誌を1905年(明治38年)に創刊したそうです。創刊当初はその名前の通り「水絵」すなわち水彩画専門誌でしたが、時代と共に西洋美術から東洋美術まで紹介する総合美術専門誌になっていきました。
その後、1941年と1944年に美術雑誌の統廃合があり「新美術」「美術」と2度名前が変わりましたが、この1946年9月号で「みずゑ」として復刊したそうです。その事を当時の編集長大下正男氏(大下藤次郎の子)が「復刊の辭」として巻頭に書いています。
また、巻末の編集雑記に次のような一文があります。
一時みずゑは總アートを用ひ色刷も十枚位入れたものである。何時の日にそう云ふ雜誌が作れるか、それは十年先の事かとも思ふが、案外二三年で實現出來る様な氣もする。いづれにしても乏しき材料を出來る限り活用して立派なものを作りたい。
やはり、戦後の物資不足で紙などが無かったようで、この後に出版された何冊かは、号によって紙の質が全く違うものになっていて、この年の12月号は藁半紙のような薄い紙が使われています。そんな大変な中でも出版し続けたみずゑですが、1982年(昭和57年)には月刊誌から季刊誌になり、1992年(平成4年)に残念ながら休刊になってしまいました。
ちなみに、この号中に岡鹿之助の「顔料に就いて」という項目がありますが、それは以前紹介した「油絵のマティエール」の内容になっています。また他にもみずゑについて調べている中で、石井柏亭の「我が水彩」の内容も、この号とは違いますが、みずゑ誌上で連載していたことが分かりました。
大下藤次郎
1870年(明治3年)~1911年(明治44年)